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瀬古利彦の悲劇は息子・昴さんの死以外にもあった?過去の事件や事故とは?

元マラソン日本代表選手の瀬古利彦さん。2021年4月に長男の昴さんが病気で他界されました。瀬古利彦さんは、1980年のオリンピックモスクワ大会ボイコットで大変悔しい思いをしています。これが瀬古利彦さんの人生最大の悲劇だろうと思っていましたが、息子さんが先立たれたこと以外にも、誰も予想しないような悲劇的な事件や事故に合っています。この記事では、解説などで明るいキャラを見せる瀬古利彦さんが、これまで乗り越えてきた事件や事故と人となりをまとめています。

瀬古利彦の長男・昴が闘病の悪性リンパ腫で亡くなる

瀬古利彦さんには4人の息子さんがいます。

長男の昴(すばる)さんが、34歳の若さでホジキンリンパ腫という悪性リンパ腫で、2021年4月13日に帰らぬ人となりました。

自分の子供が先に逝ってしまうというのは、どんなにか悲しいことだと思います。

瀬古利彦さんは、昴さんが心身ともに辛い闘病生活を送りながらも、生き生きと治療に挑み続ける姿を「息子ながら本当にエライ」と褒めておられました。

きっと治る、寛解すると信じて闘病していた昴さんのことを思うと、親御さんは胸が張り裂けそうに違いないと、お気持ちをお察しするばかりです。

昴さんは、このまま死んでしまう方が楽だと思うような辛い治療を受けながら、本を著しました。

自らを「がんマラソンのトップランナー」と命名し、著書のタイトルは『がんマラソンのトップランナー 伴走ぶっとび瀬古ファミリー!』

治療や副作用の痛みや苦しみ、とてつもない不安感や恐怖などをユーモアを交えながら、素直につづった作品です。

昴さんは、放射線治療で精子が作れなくなるとお医者さんに言われ、漠然と描いていた将来家族を持つということができなくなると知り、精子を保存したそうです。

生き死にがかかった病気を患うと言うのは、肉体的な痛みだけではなく、精神的な辛さも大きいことを想像させるお話です。

昴さんは、「同世代のがん患者や苦しいことを抱える人達が、自分が率直に書く葛藤や悩みとそこからの気づきを得て、何かの役に立ててもらえれば」という思いを込めて本を書いたそうです。

その本がこちらです⇓


昴さんのご冥福を心からお祈りします。

瀬古利彦の人生に起きた事件や事故とは?

オリンピックでメダル獲得を期待されながら、オリンピックでは一度も入賞できなかった瀬古利彦選手。

解説ではダジャレも交えて面白いおじさんという雰囲気ですが、今までも山あり谷ありの人生を歩んでこられています。

瀬古利彦のプロフィール

名前 瀬古利彦(せことしひこ)
生年月日1956年7月15日
出身地 三重県桑名市
出身校 四日市工業高校、早稲田大学卒業
経歴 エスビー食品社員として選手活動、引退後は同社陸上部監督と早稲田大学陸上部競争部コーチを歴任。その後、同社スポーツ推進局長、日本陸連役員、東京都教育委員、DeNAランニングクラブ総監督、東京五輪マラソン強化戦略プロジェクトリーダーなどを歴任
身長 170㎝
体重 65kg

国際マラソン大会の戦績

数々の国際大会で新記録や優勝をしています。

オリンピックだけが入賞できなかったのはとても悔しいでしょうね。

【優勝した国際オリンピック大会】

  • 1978年 福岡国際マラソン
  • 1979年 福岡国際マラソン
  • 1980年 福岡国際マラソン
  • 1981年 ボストンマラソン
  • 1983年 東京国際マラソン
  • 1983年 福岡国際マラソン
  • 1986年 ロンドンマラソン
  • 1986年 シカゴマラソン
  • 1987年 ボストンマラソン
  • 1988年 琵琶湖毎日マラソン

ロサンゼルスオリンピックでは14位、

ソウルオリンピックでは9位でした。

モスクワ五輪ボイコットで涙をのむ

瀬古選手と言えば、オリンピックモスクワ大会の代表に選ばれていたのにもかかわらず、日本政府がボイコットを決めたため、オリンピック出場が果たせなかったことが印象深いです。

代表が決まっていた選手にとって、このショックは大きかったでしょう。

瀬古選手は、振り返るとこのモスクワ大会の時が一番脂が乗っていた時期だったと言います。

その後、数々の国際マラソン大会で優勝しているのに、オリンピックだけは入賞できなかった瀬古選手。

日本中の期待を背負わされ、期待通りの結果が出せないとひどいバッシングも受けました。

モスクワオリンピックのボイコットは、その時よりも後から思い出す方が悔しさがこみあげてくると言っておられます。

自宅建設の土地購入で詐欺にあう

1984年、瀬古利彦さんは美恵(よしえ)さんと結婚しました。

1998年、瀬古利彦さんはチラシで家を建てるのにちょうど良さそうな土地が売りに出ていることを知りました。

ちょっと高かったのですが、実際に土地を見にいったところもっと安い土地があったので、そちらを購入することにしました。

ところが、それが詐欺師の罠だったのです。

現金で払うことをせかされ、半分を現金で先に払ったところ、渡されたのが権利書がなんと偽物だったのです。

土地の広さや具体的な場所はわかりませんが、その時既に4人の息子さんが生まれていて6人で住む家です。

ある程度の土地の広さはあったと思うので、金額は相当な額だったと思われます。

当時、このニュースを見た私は、なんて運がないんだろうと思ったのを覚えています。

その後、瀬古利彦さんは、弁護士をつけてお金は大分取り戻すことができたそうなので、それは救いです。

トレーニング合宿帰りの車で教え子ら5人が事故死

1990年8月、当時ヱスビー食品陸上部の監督だった瀬古利彦さんは、北海道で2週間の合宿を開きました。

その時、兼任で監督をしていた早稲田大学陸上部の学生も合宿に参加し、合同でトレーニングをしました。

2週間の合宿を終え、選手たちを乗せ空港へ向かったワゴン車がセンターラインを越えトラックと正面衝突し崖から転落すると言う大きな事故を起こしてしまいます。

この事故で、ヱスビー食品の選手2名とコーチとマネージャーが亡くなってしまいました。

教え子の事故死、ワゴン車を運転していたのが大学生だったため、そのことも大きな問題になりました。

この事故は、瀬古利彦さんにとって大変大きな悲しみと責任を感じるもので、心中は大変であったと思います。

東京2020マラソン強化戦略プロジェクトリーダーを務める瀬古

 

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息子さんを失うと言う大きな痛手を受けた瀬古利彦さんですが、東京オリンピック2020ではマラソン強化戦力プロジェクトリーダーです。

新型コロナの感染の拡大が続いておりオリンピックがどうなるか不透明ですが、開催できれば、瀬古利彦さんの気持ちを保つ助けになるのではないでしょうか。

人生で教え子を事故で失った経験をした上に、自分の子供まで失う経験をした瀬古利彦さん。

解説や記者会見を見ていると、自分が味わったようなプレッシャーを若い人に与えることは避けたいと思っている様子が感じられます。

ユーモア好きでダジャレや冗談をよく言うのも、周りの人の肩に入った力を抜いてあげるためのように感じています。

お辛いと思いますが、後進の指導が続けられることを祈っています。

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